きょうのひとり飲み会

太く短くふわふわと

10年前について語っておくか

その日の話は私がしたところで意味はない。

まあここのブログ自体意味はないのだが。

 

関東民が、果たして語ってよいものか?

帰るのにえっらい時間がかかったくらい、だもんなあ。

会社も立地が特殊だったから計画停電もなし。自宅もなかった。

関東民だけど、関東だっていろいろあって生きていくのに必死だったからもうあんまり覚えてない。

 

親が昔東電の人だったので、社員の福利厚生用の病院で私は生まれたんだよね。

もちろん売却されました。

そこに何の感情もない。

100億円で売ったらしいけど賠償金だけで10兆円超えたとか最近の報道にあったので焼け石に水だよなあ。

 

私はこの頃もう膵炎になっていた。

診察にはまだ行ってなかった。

震災で変にハイになってしまって、2か月くらいはごまかせたけど5月にまた激痛に見舞われる。

会社は辞めることにした。

毎日20時より前に帰れたことがなかったような気がするが、定時に帰っていいことになった(何それ………!)。

終業の定時は16時だった。18時ではない。

まっすぐ帰るとちょうど東電の記者会見が始まるのだった。

17時か17時半開始だったはず。

専門的な話はまったくわらないけど、他に見るものもなかったので、毎日見た。

 

そういえば、今もそうだけど、私の家にはテレビがない。

見たい番組があったら実家に録画を頼んでいた。

パソコンのインターネットとラジオだけが情報源だった。

当時私はTwitterをやってなかった。mixiで連絡取り合ってたのかなあ。携帯電話はガラケーだった。ガラケーも緊急地震速報はりんりん鳴った。余震でよく夜中に目が覚めた。

だから津波の映像は見なくて済んだ。

ラジオは割と最初から娯楽をやっていたような気がする。

ただし、平原綾香とドリカムばかりだった。元気とか勇気が出るような詞の歌。

 

 

話を戻すけど、実は東電の記者会見には親の知り合いがほぼ毎回出席していた。

親は荒れた。

「お前にこの気持ちがわかるか」

と言われたので

「私のいる業界は何もしていないのに放射能のことでお客様から問い合わせだとか、検査の機械入れたりしているんだよ。人もおカネもバカにならないんだよ」

と答えた。

東京の弟は会社の方針で大阪に避難した。2週間で帰ってきたけど。

 

と言っても、当時私の在籍していた会社では特に何もなかった。

取引先はお客様から問い合わせがけっこう来たらしい。

私がその数年後に派遣で就業した企業には放射能検査の機械があった。 

 

まあ、こんなところなのかなあ。