高校を出てから知り合った人に高校時代の話をすると驚かれることが多々ある。
もっとも驚かれるのは制服なんですけど、今回は勉強の話。
1995年くらいの埼玉の公立普通科。今はさすがに体制が違うと思う。思いたい。
この高校は進学校のはずなんだけど「可能な限り履修する」がモットーだった、のか?
文系でも理科3科目強制だったし物理普通にやるよー、とtwitterで述べたらめちゃくちゃ驚かれた。
科目は確か以下の通りだったはず。
【1年】
国語Ⅰ、古典Ⅰ、英語Ⅰ、オーラルコミュニケーション、数学Ⅰ、数学A、生物Ⅰ、世界史、書道、調理、保健体育
【2年】
現代文Ⅱ、古典Ⅱ、英語Ⅱ、数学Ⅱ、数学B、物理Ⅰ、日本史、書道、被服、保健体育
盛りだくさん過ぎる。どの科目も1年で終わるわけがなかった。
うちは文系か理系かの選択を2年の冬に迫るというまったくやる気のない学校だった。
1、2年では理科と芸術しか選択できなかった。それ以外は全員同じ科目を履修するのです。
しかも文理選択でクラスを決める根拠は本人の意思のみだった。
他校の友人たちは成績が加味されるってみんな言いましたが、うちは本人が行きたいって言えば行けた。
で、3年。
【3年・理系】
現代文、リーディング、ライティング、数学Ⅲ、数学C、生物Ⅱ、化学Ⅰ、化学Ⅱ、現代社会、保健体育
うわー何てむちゃくちゃなんだ。地学、倫理、政経、地理以外は全部やったことにならないか。
確か数学と英語は毎日あった。それはまあいい、理系クラスだし。
化学ⅠとⅡは同列です。
教科書通りだと無機→有機なんでしょうけど、同時進行。
教師はもちろん別だった。そして月に2、3回は実験!!!
生物も似たようなもんだった。テーマを決めて実験や観察を行い、発表だってあった。
おかげで理科が楽しいことに気づき、………あれ、おかしくないか??
思い出していると楽しいことばかりなんだけど、そんなことしている間にも全国のライバルたちは英単語だとかを覚えようと必死だっただろうに。
ここの高校は指定校推薦もそれなりに充実していた。
しかし………農学部の指定校推薦はなかった。
すると普通の推薦試験か一般入試のどちらかにしなくてはいけない。
私は推薦試験は面接とか小論文をやれる自信はなかったから最初から一般試験に絞った。
だから授業の他に受験勉強をしなきゃならんわけ。
文系科目は教師が気合を入れて「理系クラスだと思って油断するなよ?」という内容だったので内職なんてできません。現代文なんて小林秀雄をがっつり盛られた記憶しかない。
私の受験科目は数学ⅠとA、英語、理科。
理科は生物か化学のどちらかだけど化学は2年までに履修できなかったので生物一択。
今思えばよくやれたなあ………………、そりゃ補欠で引っかかったのは奇跡だったわ、というところ。
こうして多数の浪人生を輩出し(特に理系男子)、周辺住民からは「4年制高校」と揶揄されるのだった。
私はこれが普通だと思っていたのですが、大学時代に出会った人全員から否定されました。
「本当に普通科?理数科じゃなくて?」
とよく言われました。
で、これで何かよいことがあったか?と問われるとよくわからん。。。
食い散らかした感が半端ないです。
ああそうだ、私は理系科目で点数が取れないので中学時代は文系に進むとしか思ってませんでした。
しかしここに入って普通科の割にはたくさん実験をやって「理科楽しいぞ」と思ったから今があると思うのです。
当時も成績で文理クラスを決めるのが一般的なようですが、そういう学校だったら私は理系クラスには絶対行けませんでした。
目標は違うものになっていただろうし、理系クラスには行けずに浪人するか、どちらにしても今とは違う人生になっていたはずです。
せっかくこんなに履修したのだから地理はやっておきたかったなあ。水曜どうでしょうの試験に出るどうでしょうがさっぱりわからないもの。あ、日本史はやったか。寝てて聞いてなかったし当時から歴史には興味がなかった。
受験には超絶に向かない学校だとは思いますが、例え理解できなくても勉強は楽しかったです。
それは幸せなことだったと今になって思います。
このようなむちゃくちゃなカリキュラムになった背景について一応考える。
考察すると更に長くなってしまうので簡単に。と思ったら長くなってしまった。
・公立
・割と自由な校風
・昔からあるゆえにいろんな意味で取り残された?
というのが絡まったのではないでしょうか。
3つめの「昔」ってどのくらい昔だったのか。調べると大正時代にできた模様。昭和初期だと思っていた。
親が言うには終戦前後あたりまでは普通に東大に行けていたらしい。
あっ、そうかわかった、生徒の質はどんどん落ちているのに考えが終戦前後のままってことだったのかな??